空気震わす音叉の韻にも似た気配の後、響いて来たのは真人の雇い主・葉月の声であった。
『……真人?』
「あいよ」
かつてはなかなか「さん」付けを解かず、堅苦しい呼び掛けに終始していた葉月も、今ではようやく真人を呼び捨てにするまでになった。もっとも、それまでには「呼び捨てにしねぇと返事しない。」などという、非常に大人げない攻防が主従の間では繰り広げられたのだが。そんな話は、さておき。
雇い主から入った心話に、さも嫌そうな口調で応答した真人は、脇から祐子にパカン、と後頭部を叩かれ、慌てて居住まいを正した。
「何でございましょーか、葉月様ぁ!」
取って付けたような真人の物言いにも、気分を害した風を見せず葉月は、クスクスと笑って心話の気配を揺らす。
『そろそろ僕は陽宮に帰ります。今日は外に視察に行く予定もありませんから、僕一人で大丈夫ですよ』
だから心置きなく有給を取ってくださいと言われ、真人が大喜びをしたのは言うまでもない。
「サンキュー、葉月! 恩に着る!」
などと、これまた主従の弁えもへったくれもない歓声を上げた真人に、スパン、と祐子からのハリセンが飛んだのも言うまでもない。
「しかし、本当に構わんのか?」
訝る祐子に葉月は、日頃の笑顔が目に浮かぶ調子で答えた。
『僕の知らない間にも、あちこちシメて下さってるようですから』
こんな時くらい、しっかり休暇を消費して頂かないと。なんて余計な内実まで暴露され、
「真ァ~人ォ~」
と、ドスの聞いた声で祐子が彼の名を呼ぶ頃には、当の本人はとっくの昔にトンズラこいた後だった。
跡形消えたテラスの欄干を諦めがちに見やり、フゥ、と溜息を吐いた祐子は、それでも微かな苦笑を頬に刷いて首を傾げた。
「済まんな、葉月」
気を遣ってもらったのだということは、最初から判っている。それに対する礼と詫びに、心話の向こうの葉月は笑って頭を振った、ようだった。
『お気になさらないで下さい』
お礼を言わなくてはならないのは、僕の方なんですからと、その礼が何たるかは皆まで言わず絶えた心話に、祐子は静かに笑って目を伏せた。
【続く】