――初めて愛した女は母だった。
その胎の中から生まれ出たくないと思う程に執着し、同時に己が腕で彼女の肢体を抱く時の訪れに焦がれてもいた。相反する欲望と希求。そのどちらも選びかね、彼は長く母の胎内に居座った。産み月も、とうに超えた期日まで。
それを見かねた父親が、手ずから妻の腹を裂き、我が子を此の世に文字通り放り出した時から、彼の敵は決まっていた。 不倶戴天の男――それが我が父・雷閃であると。
点々と、石の回廊に血痕が続く。それは地下へと到る階段の最奥で血飛沫となり、凄惨な緋の色彩を四方の壁、天井に撒き散らし、今も剥がれ落ちる肉片を滴らせていた。
肉片の主は、そこから少し離れた回廊の隅で倒れている。長い蛇の身体を蜷局に巻くことも叶わず、壁に打ち付けられ、床に頽れた衝撃のまま波形に弛緩する体躯を投げ出している。背に負う翼の片方は毟り取られ、もう片方は千切れかけたまま辛うじて骨と皮が繋がっているという有り様。膾に斬り刻まれた全身から止めどなく血は溢れ、それが剥がれかけた黒金の鱗を浸す赤黒い血溜まりを成している。
そんな酸鼻極まりない光景の中に、溜息と共に降り立った影がある。薄暗い地下への回廊の中でも、それと判る程に白い毛並みと翼を備えた仔犬。彼は足を濡らす血溜まりの深さにも臆することなく宙から舞い降りると、気絶しているのか冷たい石畳の上に力なく身を横たえている翼蛇の尾を咥え、ズルズルと引き摺り始めた。
身の丈で言うなら、蛇は仔犬の大きさの優に倍する。せめてもの救いは蛇身が獣の胴よりは細いことだが、それでも長く尾を曳くものを引き摺り続ける労に比べれば帳消しだ。
だが、仔犬は諦めず放り出さずに翼蛇の身体を地上へと引き摺っていく。人身に化すことが出来れば少しは楽なのだろうが、未だ幼い彼には、その能力は備わっていない。
そんな手間よりもむしろ、己が未熟さ故にやむなく相手を引き摺り、それにより傷の具合を深めてしまっていることにこそ口惜しさを感じているように、仔犬は額に皺を寄せ、低く唸り声を上げながら長い蛇身を運んでいった。
【続く】