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2009 *09 21 all or nothing 〔2〕

 黒金の鱗さざめかせ、翼ある蛇が眼を覚ましたのは、仔犬が彼を引き摺り始めてから、暫く経った後のことだった。
続き
 黒き蛇――父親と同じ異名を、いずれ冠するようになるであろう彼の名は、黒鏖(こくおう)。しかし今、目覚めた彼に、その名をもって呼びかける者はいない。白き仔犬――その姿はよく見れば狗頭のグリフォンにも似ているのだが――には、人型に化せないのと同じく、未だ人語を発する能力がない。代わりに彼は相手の尾を咥えたままの口で、クゥンと小さく仔犬の姿に相応しい鳴き声をたて、黒鏖に己が存在を呼びかけた。
 それに応え、朦朧たる眼差しを仔犬・久鷹(くよう)に注いだのも束の間。黒鏖は傷だらけの身を捩って彼の顎を振り払い、その口許から床の上へと逃れ落ちた。激しい身動ぎによって、せっかく血が乾き、塞がりかけていた傷口がまた開き、剥がれた鱗や肉片を撒き散らしながら黒鏖の蛇身は石畳の上に投げ出される。
 それを見た久鷹は、白い毛並みが赤黒い血に汚れるのも構わず黒鏖の上に覆い被さり、傷の痛みと屈辱とに尚も暴れようとする彼の身体を押さえつけた。
 母の血を引いてか回復能力の高い黒鏖は、既に両翼の殆どを復元させ、それをもって背後の久鷹を撥ね退けようとする。蝙蝠のそれにも似た骨と皮だけで作られた羽が、未だ欠けた部分から破片をはためかせつつ己を押し退けようとするのに、久鷹は四肢に懸命の力を込め抑えつける。羽だけでは埒が開かないと悟った黒鏖は、尚も暴れる蛇身をくねらせ相手を振りほどこうとする。が、これには一声、戒める鋭い吼え声でもって応え、ようやく久鷹は彼を押し留めることに成功したのだった。
 揉み合う最中に擦り付けられ、あるいは跳ね飛んだ飛沫によって白い久鷹の全身は汚れ、べったりと赤黒い血潮が塗りたくられている。そんな無惨など、自分の知ったことではないとばかり、黒鏖は気を緩めた久鷹が毛皮を舐めて清めようと身を捩った隙に、素早く振り払う尾の一撃を彼の横腹に見舞い、小さな仔犬の身体を石の壁に叩きつけた。

【続く】

16:17 | SS | 稲葉