これだけの事が終わるまで、僅か十分足らず。突き刺された両手に感覚はないが、微かに残る腕の皮膚感覚で、我が身から流れた血が机に溜まりを成す程ではないと知れる。たったそれだけの間に、この男はどれだけの血を流し、どれだけの屍を積み上げたのだろう。愕然たる面持ちのまま、久鷹は黒鏖の容貌を見上げた。
彼は手にしたシナーズ・ソードの刃を引き戻し、元の長剣形態に収めようとしていた。無限にも思える長さのそれを、恰かも身体の一部――それは彼のもう一つの姿である蛇の尾のように操って見せる様に、知らず干上がる喉を鳴らす。
コイツには勝てない。それは理屈ではなく感覚ですらなく、本能で悟ることであった。そして同時に久鷹は訝りを覚える。何故、彼は自分を助けに来たのかと。それは「守られた」と自覚することで生じる屈辱よりも尚、明らかな疑念として久鷹の胸を灼いた。
食堂内に備え付けられていた洋燈もすべて消え、暗憺たる闇が充たす中、黒鏖の姿だけが仄かに燐光を纏って明るい。黒金の髪と漆黒の衣に縁取られ、暗緑翠の瞳を双眸に飾った彼の白い横顔を見つめながら、久鷹は自分の中に昏い熱が芽生えていくのを感じていた。
それは劣等感とも違う、今までに感じたことのない――そう、『劣情』としか呼びようのない、熱く昏い感情だった。だが、それを誰の、何に感じているのか、久鷹にはまだ解らなかった。
「……どういう、つもりだ…」
干上がりヒリつく喉がたてる皹割れた声で、そう久鷹は尋ねた。それに黒鏖は片眉を上げて振り返り、婉然と微笑んだ。
「言っただろう? オマエは、俺の獲物だと――…」
その印をその身体に、誰もに解る形で刻みに来た。黒鏖は確かに、そう言った。しかし同じ唇で皮肉めいた嗤いを吐き出し、自嘲するかのように、こう言った。
「しかし、少しは『証人』を残しておくつもりが…、やり過ぎたか――」
それが皆殺しに近く為された殺戮に対して述べられたものとするなら、あまりに無造作で、かつ今更な感懐であった。最初から、誰ひとり生かしておくつもりなどなかった癖に――言いかけた科白は、久鷹の口の中で永遠に凍りついた。
【続く】