昏い、昏い闇が降ってくる。黒鏖という名の男の姿をとって。――否、それは彼の姿を見る、己が胸の裡から湧き出るものなのか。久鷹にはもう、解らなかった。
全裸のまま食卓の上に磔られ、頭上高く組まされ深々とナイフで貫かれた両手は、もはや無感覚を通り越し、冷たく強張り始めていた。その凍える指先すら火照らせる炎のような熱が今、じわじわと掌から拡がりつつあった。
「……ッ、ウ…」
深く突き刺さった卓から抜こうというのか、更に突き立てようというのか、黒鏖が手を掛け、抉るように動かしたナイフから、痺れるような痛みが久鷹の全身に走る。思わず上体を捩り、開いた脚の間に黒鏖の腰が、仰け反る胸に彼の黒髪と背中が覆い被さってくる。そして堪え切れぬ喘ぎに綻んだ唇に、冷たい唇が重なろうとした、その時――。
「……黒鏖ッ!」
何を思う間もなく久鷹は自らの両腕を引き起こし、肉が裂けるのも構わず手にしたナイフを黒鏖めがけ、振り抜いていた。
鮮血の飛沫を曳き、真っ直ぐに飛んだナイフは僅かに顔を背けた黒鏖の横頬を切り裂き、背後に現れた男の眉間に誤たず突き刺さった。愚かにも大きく振りかぶった剣を打ち下ろすこともなく、男は黒鏖の背後で仰向けに崩れ落ちていった。
その姿を皆まで見送ることなく、久鷹は血塗れの手を伸ばし、黒鏖の胸倉を掴み上げた。
「何故、避けないッ!」
さっきの男が現れることは彼にも解っていた筈だ――その気配なら、自分にすら知れていたのだから。にも関わらず、襲撃を回避しようとしないばかりか、戯れに触れる手を止めようともしないとは何事か。そう怒った久鷹の思惑をすべて承知しているかの如く、伏し目がちに彼の声を聴いていた黒鏖は、やがて顔を上げると眼を細めて微笑んだ。
【続く】