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2009 *05 10 トキメキ 〔10〕

 虚空から音もなく立ち現れたのは、狼身の夫・傲嵐を傍らに従えた、この家の主・藤神祐子。
続き
 死神としての戦装束も解かぬままということは臨戦態勢バッチリ、もとい帰宅したその足でこの部屋に来たのだろう。あるいは最初から暗星通路の出現先を、ここに指定していたのかも知れない。その藤神は「仁王立ち」と呼ぶも烏滸がましい艶やかな立ち姿で腕組みをし、足下の息子・弟子夫婦を見下ろした。
「この時間まで朝寝坊とは。良い身分だな、赤嵐」
 穏やかに投げられた母の声に、金剛縛咒を掛けられたまま赤嵐はギクリと竦み上がった。口調こそ落ち着いているものの、それは嵐の前の静けさというヤツだ。しかも赤嵐と呼ばれた、その名前――。普段は「嵐」の字がつく兄弟が多い手前、また半人前であるとの意味もこめ、赤(せき)と略してしか呼ばれぬものを、敢えて真名で呼ぶということは、名ですら縛して逃がさぬという意図の表れだ。
「し、師匠! 待って下さい! これはっ、――…」
 弁解か、はたまた赤嵐に対する弁護か(おそらく後者だろう)、言いさした裂黒を片手で制し、藤神は掲げた指先をクイと持ち上げた。その瞬間、掻き合わせたばかりの彼女の胸元から、コロン、と転げ落ちた影がある。
 小さいながらも立派な縞模様を備え、猫の仔にしては太くて短い手足が愛らしい、紛うことなき虎の仔の名は庵(いおり)。幼少のみぎりより裂黒と共に育ち、守護者としての務めを果たしてきた、もうひとりの式神だ。それを主人の意思に依らず呼び出してみせ、藤神は婉然と微笑んだ。
「おはよう、庵。ところでオマエ、朝の修行は、どうした?」
 無論、この場合の修行とは、庵のみが行うものを指すわけではない。庵は、あくまで裂黒の式神。赤嵐も立場上は、そうだ。そして藤神を師と仰ぐからには、裂黒は術士の端くれ。つまりは、この三人が行うべき修行を指す。
 藤神流の修行は遅くとも朝四時から一日のメニューが始まる。つまりはこの時間、とっくの昔に表へ出ていなくてはならない頃合いだ。解っていて尋ねる藤神も藤神だが、もっともイケズな部分は、そこではない。式神としての力量において、また獣態を常とするものの癖において、庵は他者に嘘がつけない。それが藤神ほどの術士ともなれば、なおのことだ。唯一の例外は、直接の主人(つまりは裂黒)の不利益になることを口にする場合のみだが、それも避けるために藤神は敢えて庵自身に訊いたのだ――オマエ、(自分の)修行はどうしたのだ? と。
 案の定、まるまっちい両手両足を畳について「お座り」ポーズをとった庵は、ふて腐れた調子で、こう言った。
「……赤嵐ガ、次はオマエの番だト言っタ」
 まだ人語を操れるようになって日も浅い庵が辿々しく、それでも不満げに呟いたからには、彼は「次」を待ったまま、ずっとお預けを喰わされていたのだろう。
 事の次第は知れた――要するに年若い新婚夫婦が、式神に餌をやるのも修行も忘れ、朝も早くから愛の営みに耽っていたのだろう。……年若いとは、時に未熟と同義だ。

【続く】

10:28 | SS | 稲葉