「傲嵐、――…」
「あいよ。」
何を言われるより先に、振られた指先だけで傲嵐は反応した。カッと大きく開かれた口から吐き出されたのは完き深淵の黒。その円周が、家屋の中でやり合う猛獣と少女を呑み込んだ刹那、シュンと閉じて大人しくなった。やや遅れて響き渡ったのは、先とは別の場所から轟く盛大な破砕音。傲嵐の吐いた暗星通路が裂黒と庵を家の外に放り出したのだとは、誰に聞くまでもない話だった。
「ご苦労だったな、傲嵐」
家の外二ヵ所から谺す轟音も知らぬげに、藤神は優しく囁いて満足そうに目を細める傲嵐の顎下を撫でた。
「まったく、うちの弟子どもときたら。少し目を離すと、すぐこれだ」
――呆れと心配の入り混じる母の口調で洩らした藤神に、獣態を解いた傲嵐は低く喉を鳴らして囁いた。
「お疲れさん。」
甘く囁く、耳朶へのキスが最初の合図。
「あぁ、オマエもな」
囁き返して頬にキスをし、装束を脱がす傲嵐の手に抗わぬ藤神の顔は、すでに術師のそれでなく――ひとりの女、愛する者の前に立つ妻の表情だった。
「おかえり、綾瀬」
「おかえり、傲嵐」
囁き交わす声は、脱ぎ落とす衣と倒れ込む布団の上に消えた。いや、傲嵐が接吻けた、「綾瀬」と呼ぶ女の白い柔肌の上に――…。
【続く】