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2009 *05 18 トキメキ 〔18〕

 昼過ぎても回って来ない書類に、執務室の主は怒るでもなく暇を持て余していた。
続き
 書類が来ないなら来ないで、別に構わないのだ、彼は。結局のところ、闇の城の盟主である彼の許まで回って来る書類ときたら、事後連絡の報告書か、あとは碌でもない陳情・嘆願の類いと相場が決まっている。
 そもそも闇の城を、最高権力者の決済なくして日常の業務が回らぬなどという脆弱な仕組みに組織した覚えはないし、そんな無能な部下ばかり持った覚えもない。たとえ2、3日、いや2、3ヵ月ほど仕事や書類が溜まったところで、ものの2、3分で片付ける、そんな人材しか重用してこなかった。
「それでもな、しばらく顔のひとつも見せてくれんと、つま――もとい、寂しいものは寂しいのだぞ」
 と、誰に聞かせるでもなく呟いた彼に、浅く首肯することで応えた影がある。……執務室の主が名は克己(かつみ)。それに応えた影の名は暗鄭(あんてい)。当代スサノヲにして、すべての黒幕と、その彼に無理難題を押し付けられがちな、不幸体質の黒騎士である。もっとも昨今では、自らの娘を妻と娶り、幸せな新婚生活を営んでいるらしいが。
「どうなんだ、自慢の妻は。ん?」
 可愛いと評判だと聞いているぞ。知らぬ仲でなし、いつ挨拶に来てくれるかと楽しみにしていたというのに。などと、ちっくらちっくら嫌味の如くつつかれて、暗鄭は曖昧な笑みで恐縮する。
 言っていることは孫にも相手にされない縁側の爺と同じだが、まがりなりにも闇の城の盟主だ。無下に切って捨てるわけにもいかない。これがつまらぬ野次馬なら、目にモノ見せてくれるのだが――なぞと考えたわけでもあるまいが、暗鄭は「御前で失礼」との意を込め軽く目礼すると、亜空間から愛用の双剣を取り出し、その鞘を静かに払った。
 同時に双剣の刃から真珠の光沢にも似た虹色の気が滲み出し、やがて仄白い人影となって闇の盟主が前に姿を現した。
「初めて御目にかかります、盟主。私の名は、翅彩(しさい)。主人・暗鄭が振るう双剣の霊にして、妻にございます。ご挨拶が遅れましたこと、心よりお詫び申し上げます」
 そう言って、纏うドレスの裳裾を優雅に摘まみ、一礼するはたおやかな女性の姿。その、どこか暗鄭にも似た面差しに、克己は微笑みながら鷹揚に頷き返した。
 陽炎のように儚げな容姿に実体はなく、その身が器を得るのは本性が使い手、夫たる暗鄭の腕の中のみなのであろう。朦朧と向こうの壁すら透けて見えるその姿にも驚いた風は見せず、闇の盟主は満足げに頷いた。
「過分な挨拶、痛み入る。知らぬ仲ではないと言っても、この世界では主従でもなし。そう堅苦しい礼は要らぬ」
 ――私のことは、ただ「克己」とだけ呼んでくれたら良いと許した言葉に、
「では克己さま、と」
 そう、大人しやかに、けれども芯の強さを思わせる口調で返した翅彩を眺め、ますます克己は破顔した。
「良い嫁を捕まえたじゃないか。一時はマザコン狂いで生涯終わらせるかと心配したが……」
「――盟主、」
 ほくほく顔で毒のある言辞を送ってくる克己に、流石の暗鄭も眉間に皺寄せ瞑目する。その、往事に比べれば表情豊かになった横顔に、なんとも言えぬ眼差しを送って克己は退出を促す手を振った。
「では、な。……二人とも、息災で暮らせ」
 戦場で暮らし、闘いに生きると決めた男と、その刃にして道連れたる剣霊だ。どう安く見積もっても息災との生き方とは縁遠い。それでも尚――との祈りを込めた言祝ぎの挨拶に、夫妻は揃って頭を垂れると、恭しく御前を辞した。後に吐かれた、
「子供というのも、良いものだな……」
 という盟主の言葉は聞かぬままに。

【続く】

09:57 | SS | 稲葉