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2009 *05 19 トキメキ 〔19〕

 克己の前を辞した暗鄭は、盟主の執務室から遠ざかる前に翅彩を剣の裡に戻らせようとした。
続き
 往事に比べ、また異世界のそれと比べ、現在の闇の城もマシになったとは言え、治安や棲まう者の良識は、月の宮とは較ぶるべくもない。自分ならばいざ知らず、いつ何時、誰に翅彩の容姿を見初められるかと危惧してしまうのは、暗鄭が過保護だったのか。
 双剣の柄に手を掛け、妻に戻れと声をかけようとしたその時、彼女の腰許から、リィー…ン、と涼やかな鈴の音が鳴った。
 どこかで聴いた覚えのある音色だと、暗鄭が記憶を手繰り寄せるより先に、腰に手を当てた翅彩がそこから半透明の鈴を大事そうに両手で包んで取り上げる――おそらく剣霊体である時の翅彩にも扱えるよう、半ば霊質化してあるのだろう。そんな細工の施せる人間を、暗鄭は数えるほどしか知らなかった。
「常葉(とこは)様からです、――…」
 音の響きから何か伝わるのか、リンロンと鈴の緒を振っては翅彩は頷き返す。そんな妻の姿に暗鄭は遅ればせながら、彼女と酒の神の巫女が懇意であったことを思い出す。
「あの子の清めが終わった、と。常葉様の里まで、連れて行って頂けますか?」
 躊躇いがちに尋ねる翅彩の言葉に、暗鄭が否を告げる筈もなかった。
「わかった。すぐに跳ぼう」
 淋しがっているだろうしな、と呟く声が我が子に宛てただけでなく、己にも向けられているのを悟り、翅彩は恥じらいを秘めて俯く。その妻に、
「……おいで、…」
 と静かに囁いて、暗鄭は誘う腕を差し出した。招き寄せる腕を受け、頷く間は一瞬。翅彩の淡い姿は抱きとめる暗鄭の腕の中に消え、次の瞬間には彼自身の影も亜空間の内に消えていた。後にはただ、涼やかな鈴の音だけを残して。

【続く】

10:01 | SS | 稲葉