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2009 *05 20 トキメキ 〔20〕

 『常葉の里』――そこは便宜上、そのように呼ばれているだけで本来、名はまだない。
続き
 麒麟の棲まう地が『麒麟の里』と呼ばれ、藤神邸のある場所が『藤神の里』と呼ばれるように。そこに棲まい、すべてを治める者が、常葉という名の巫女であるから呼ばれ始めた名にすぎない。そして、この里はまだ、拓かれたばかりだった。
 何もない空間に土地を産み、清水を産み、家を――それを建つべき材たる樹木、あるいは布の基たる草花、虫獣、穀物に至るまで、ただひとりの巫女が吾が神との交わりにおいて産み出した。日本という国が大和という名を得るより以前、神代の太古を再現しようとしているのが、ここ、常葉の里であった。
 暗鄭が翅彩を伴い里を訪れた時、琥珀色の陽は西寄りに傾き、昼下がりの刻を伝えていた。畦道に沿って流れる水路に豊かな清水は溢れ、遠く水車の回る軋み音が聴こえる。早稲は既に刈り入れの時期を済ませていたが、晩稲はこれからなのだろう。幾枚もの田に金色の実りが、たわわに穂を揺らしていた。
 その、畦道の向こうから、供として付き従う二頭の狼を連れ、ひとりの巫女が稲束を手に歩み来るところであった。口ずさむは、豊かな実りを言祝ぐ呪歌。清い唄声に合わせ風が踊り、稲穂が鳴る。
「常葉様!」
 夫の手から解き放たれた翅彩が呼びかけると、艶やかな黒髪を高く結い上げた女性は、まだ初々しさの残る顔に花の笑みを浮かべ、彼女らの許へ駆け寄って来た。
「翅彩、いらっしゃい。暗鄭殿も、ご健勝なにより」
 両の拳を袖に隠して合わせ、額につけて一礼する様は優美な天女の如く。仰々しい飾りを嫌うは彼の神も彼女自身も同じであるため、里の長にも関わらず、常葉が身に帯びるのは魔除け代わりの翡翠の佩玉と鈴を象った黄金の耳環、そして琥珀を刳り貫いた勾玉だけであった。
「先触れもなく、失礼を」
 常葉と同じ礼を返す翅彩の傍ら、片手の拳を逆の掌で包む礼で応えた暗鄭に、巫女は朗らかに笑って首を傾げた。
「これから行く、と伝えて襲う暗殺者も居りますまい。妾の方からお呼び立てしたのです、どうぞお気になさらず。――さぁ、あの子がお待ちかねですよ」
 口調こそたおやかであるが、物言いはまるで仕える神と変わらぬ巫女に、暗鄭はひとり微妙な表情を噛み殺しつつ、手に手をとって先を急ぐ妻と常葉の後に付き従った。

【続く】

10:04 | SS | 稲葉