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2009 *05 23 トキメキ 〔23〕

「有難く、頂戴します」
続き
 拝して飾り気のない素焼きの壺を受け取り、暗鄭は妻と子の名を呼んだ。
「翅彩、瑞輝……」
 声に応え、駆け寄る彼らこそ、この世の至福。その得難さを噛み締めながら暗鄭は、妻子二人に促した。
「里の神酒を分けて頂いた。改めて御礼を」
 それには呑む年頃でもあるまいに、瑞輝までがぴょこんと頭を下げるのが愛らしい。
「それでは、そろそろお暇を」
 名残惜しげな妻の風情をわかっていながら、そう暗鄭は切り出した。それに応え、頷く傍らで常葉と翅彩は実の姉妹の如く睦まじく抱き合う。
「また、いつでも来て頂戴ね」
「はい。必ず、必ず……」
 断ち切りがたく残る未練に鈴の音が絡む。それを汐に、暗鄭は酒壺を預けた我が子と妻の肩に手をかけ、陽炎の如く身を滲ませた。
「ご武運を、黒蜘蛛の君。善き風が貴方と共に在りますよう」
 消えゆく影に精一杯の言祝ぎを乗せ見送った常葉は、寄り添う家族の姿に切なげに眼を細めた。瀑布に架かる虹はまだ明らかだったが、空には暮色が濃く忍び寄っている。赤く暮れゆく琥珀色の空に、胸元揺れる同じ色の勾玉を握り締め、常葉は吾が神の名を囁いた。
(ご武運を…、ご武運を、主上。妾は此処でお祈り致して居ります、いつも――…)
 遥か頭上を仰ぐ常葉の足下に、変わらず侍る二頭の狼が寝そべり、冷えゆく秋の夜気から彼女を守り続けていた。

【続く】

10:11 | SS | 稲葉