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2009 *05 24 トキメキ 〔24〕

 ――同じ狼でも、こちらは体毛の色が若干違い、深い深い翡翠の翳を凝らせたような狼が一頭、囲炉裏端で寝そべっていた。
続き
 鼻を揺らす穏やかな吐息から眠っているのかと見れば、時折、チラと開く瞼が火の具合を見守っている。そうかと思えば舌舐めずりをして鼻を濡らすところを見ると、囲炉裏の灰に刺して炙られている川魚の焼き加減も計っているらしい。
 なんとも器用な、この狼の名は翠嵐(すいらん)。傲嵐・綾瀬夫妻の間に生まれた一子にして、今はここ、顎人(あぎと)宅に嫁をもらって入婿した形になる男だ。
 無論、人型を取れる程には成長しているが、そろそろ季節も晩秋の頃となると北の土地では毛皮が恋しい。よってしばしば、こうして獣態のまま転がっている次第である。これはこれで長すぎる手足をもて余すこともないし、獣態に慣れた者(ことに男子)には楽な格好なのである。まぁ、言ってしまえば若人が家でスウェットだのジャージだの着てゴロゴロしているのと、そう変わりはない訳なのだが。そんな話は、さておき。
 そろそろ頃合いの焼き魚を、水屋に立つ妻に伝えようと顔を起こした翠嵐は、そこで湯気の立つ鉄鍋片手に来た彼女と行き合い、知らず頬を和ませた。
「もうすぐご飯にしますから、皆を呼んで来て下さい」
 旦那様、と愛らしく言われ、翠嵐に否やがあろうはずもない。
「おう、…」
 と低く応えると、翠嵐はのっそり腰を上げ、獣態のまま囲炉裏端から離れた。
 今、人嫌いと名高い闘神・顎人の庵に暮らす者の数は少ない。彼の神が、もう一人の巫子・一成(いっせい)との間に成した娘の内、未婚の数名を除けば男子が二、三人。
 さもありなん、父神の因子を色濃く継ぐ男の子らは、相応の年になれば自然と自らの成長を求めて修行の旅に出てしまう。異例として残っている年長の男子に郷(きょう)がいるが、彼は付近の地鎮の役目もあって顎人宅の裏山に棲み、滅多と姿を現さない。
 年頃の娘らは、主な家事の一切を取り仕切る翠嵐の妻・弥天(みてん)を手伝って水屋にいる筈なので、彼の務めは庵や庭の方々に散って遊び呆けている子供らを、探し出して連れて行くことだけだ。
 しかし、これがまた厄介で、最近、この「飯だぞ」合図が子らの間で、かくれんぼ紛いの遊びになっている節がある。声をかけただけで素直に出てくれば良いものを、実際に翠嵐が見つけ、首根っこをひっ捕まえるまで出て来ないこともしばしばだ。
 これには翠嵐も辟易とさせられているのだが、こちとら嫁を労働力として提供しているとはいえ居候の身。このくらいの労力は、割いて然るべきかと諦めもついている。
 タダ飯喰らいは家には要らぬという識語は、生まれる前から身に染みついている藤神家の薫陶だ。そうして今日も今日とて翠嵐は、飽くなきお子様たちと不毛なかくれんぼに興じるのである。

【続く】

09:16 | SS | 稲葉