空は既に、満天の星が宵闇を埋め尽くそうとしていた。さやけき月明かりが降り注ぐ星空の下を、漆黒の毛並み波打たせながら滑空していた顎人は、その実、焦っていた。
閨での些細な諍いで、妻が庵を飛び出す。そんなことは今までにも、何回かあった。それ自体は――まぁ、妻の機嫌を取り持ちたいとか、顎人自身の下半身の都合だとかの問題はあるのだが――さほど急を要することではない。顎人が急ぐのは、そして憂慮しているのは、もっと別の理由――妻の身の、様々な意味での安全だった。
閨を行為の途中で飛び出して、顎人のナニがアレな状態ということは、妻の身体もそれなりにそれなりな状態ということで。そんな時の妻の身体は、非常に危険なのだ。……どう危険なのかと言えば。所構わず相手構わず交わる相手を『喚ぶ』。それはもう、どんな条件もへったくれもなしに、である。
そして顎人の妻は、非常に優秀な、しかも特殊な巫子体質の持ち主であった。通常、特定の神に妻問され、その伴侶となった巫子は生涯、その神に仕え、その神だけのものになる。その関係に他の神は、余程の力がない限り介入できないし、また巫子の力を引き出したり利用することもできない。神が自ら選んだ巫子に妻問し、巫子が神に答えるとは本来、そういうことなのである。
顎人のもう一人の巫女である常葉は、その意味で非常に典型的な巫子であった。彼女の力は常に吾が神にのみ向けられ、その意に添わぬ限り、他者に影響を及ぼすことはない。
……しかし、一成は違う。顎人と契り、その巫子となった今ですら、ある意味で一成は彼だけのものではなかった。その貪欲さ故にか存り様の特質からか、一成は如何なる神・如何なる霊性のモノとも交わり、それを受け入れてしまう。
そして一成の巫子としての能力のひとつに、相手の《力》の上昇、あるいは存在の固着化がある。霊的実体を持てぬ生半可な神や妖霊などからすれば、一成の存在は垂涎の逸品ということになる。しかも、女としても男としても、見目は元より超一級。それが無防備かつ無造作に放つ喚びかけに、抗えるモノがいるだろうか。おそらく、抗うことすらすまい。
そして、顎人の棲まうあたりには、服わぬ土着の神が山といる。ただでさえ安全ではない中を、危険極まりない状態でカッ飛んでいった妻の身を顎人が案じるのは、ある意味で当然と言えた。
【続く】