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2009 *05 30 トキメキ 〔30〕

 前回は、力を喪いかけた山神の結界に引き摺り込まれ、強引に犯されかけていた。その前は質の悪い怨霊共の吹き溜まりに足を突っ込み、あわや輪姦の憂き目を見るところだった。
続き
 それで懲りれば良いものを、追いかけられるのは遊びの一種と感じてしまうワンコの本能が悪いのか、それとも逃がす己が馬鹿なのか。こんなことなら、もっと手を抜いて修行をつけてやるんだったと、そんな愚かなことまで考えながら顎人は、夜空の下を大急ぎで駆け抜けていた。と、その時。
「――テメェ、紫威(しい)んトコのガキ!」
 月明かりの下、遥か50メートル先を擦れ違いかけた影に、彼は声をかけた。応じて脚を止め、振り返ったのは翠嵐に良く似た、しかし毛並みは色違いの狼。夜空に溶け込む程に濃い青の毛並みの背に、真っ白なドレスの裾たなびく少女を乗せた彼の名は青嵐(せいらん)。藤神家の嵐兄弟が三番目にあたる男だ。背に跨がる少女は、妻の慕鼓(もこ)。
 この青嵐は、嵐兄弟の例に洩れず生後間もなく行方不明になった後、やおら月の宮に現れ窓辺にいた慕鼓にひと目惚れ。彼女を拐って妻にしたという武勇伝の持ち主だ。無論、あの苛烈な母親に所業の無体を咎められ、壮絶な折檻を受けたことは言うまでもない。ひと目惚れ同士であった妻の取り成しがあったればこそ、今は半勘当状態で済んでいるが、そうでなければ今頃、生きていない。
 そんな彼らは今、月の宮でも陽宮でもなく、まして闇の城でも藤神邸でもない、次元の狭間に居を構えて暮らしている。本来ならば顎人の棲まう次元とも異なる空間にいる筈なのだが、たまたま散歩にでも出ていたのだろう。あるいは妻同士、仲の良い弥天と慕鼓が会いたがったのかも知れない。
 いずれにせよ、嵐兄弟の中では最も多次元間の気配を同時に探ることに長けた男が青嵐である。渡りに舟とばかり、顎人は彼らの許へ駆け寄った。
 ――ちなみに、紫威とは傲嵐の字であり、身内は皆、その名で呼ぶ。傲嵐とは主である藤神祐子が彼に与えた真名であり、彼女しかその名で呼ぶ権利はない。それを知っているからこそ顎人は先の如く青嵐に呼びかけたのであり、彼らもまた脚を止めたのである。
「オマエら、一成を見なかったか!」
 こんばんはと、のんびりおっとり礼儀正しく夕べの挨拶をする慕鼓に応えるのもそこそこに、そう顎人は切り出した。それには慕鼓は、ぼんやり首を傾げ、反面、青嵐はニヤリと口端を歪め、顎人の顔を見つめた。
「また逃げられたんですかい、旦那」
 物言いばかりは兄弟そっくりな青嵐の人の悪い笑みに、顎人はバツ悪く顔を顰めながら「煩せぇ」と吐き捨てる。その声が、いまひとつ覇気に欠けるのは、こうして一成の行方を青嵐に尋ねるのは、これが初めてではないからだ。
「そういや西の空の方に、それっぽい流れ星が消えてったような……」
 わざとらしく思わせ振りな口調で焦らす青嵐の性悪さが、わかっているだけに顎人は唸る歯を剥かんばかりの形相になる。それを見かねた妻の慕鼓が、夫の背から身を乗り出して口を挟んだ。

【続く】

21:13 | SS | 稲葉