嵐兄弟の母親といえば、それは洩れなく藤神祐子だ。顎人と彼女とは知らぬ仲ではない。
藤神が禁じていると言うからには、故あってのこと。何より、息子らにとっては躾厳しい鬼母の言い付けを破ることは真実、冗談ではなく死を選ぶに等しい行為だろう。
二重の意味で、ここは無理強いしたくはないし、出来ないところか――。思い悩んだ顎人の許に、救いの神は意外にも目の前から現れた。
「……秘蔵の梅酒、一本」
情れない素振りでそっぽ向いていた青嵐は、視線を顎人に向けぬままに、そう言った。加えて言うには。
「慕鼓が梅酒に目がないんですよ。でも、流石に酒の神んトコの秘蔵酒には手が出ないかなぁって……」
後は皆まで聞く必要はなかった。
「乗った!」
「――毎度あり。」
一二もなく手を上げた顎人の前に、青嵐はニヤンと笑って暗星通路の入口を開いた。
「世界樹の庭、お一人様ご案内~」
「すまねぇ、恩に着る!」
道化た物言いで頭を垂れる青嵐に礼を言い、手を振る慕鼓に別れを告げるのもそこそこに、顎人は暗く口を開ける通路の中に飛び込んだ。
音もなく暗星通路の口が閉じた後、慕鼓は青嵐の背に凭れかかるようにして身を伏せながら、彼の顎下を撫で擦った。
「お疲れ様、青」
なでなで、と耳の後ろも掻かれ、青嵐は心地好さそうに喉を鳴らす。
「でも、あんまり意地悪しなきゃいいのに」
ぽつり、と呟いた慕鼓の言葉に、青嵐は喉の震えを収め、歯を剥いた。
「タダで通しちゃワリに合わねぇし、何よりつまんねぇだろ?」
ニヤリと笑う青嵐の顔は本当に愉しそうだが、その分、人が悪い。けれど、そんな処も好きだと感じてしまう自分も大概かなぁと、のんびり思い浮かべながら慕鼓は青嵐の頬に接吻けた。
「ありがと、青嵐」
顎人秘蔵の梅酒なら、遊びに行ったついでに弥天に頼めば出しては貰える。けれど、それを家で――あるいは夫とふたりっきりの場所で楽しんでみたいと思っていたのは本当だ。誰にも言ったことのなかった秘かな野望を、ちゃんと夫が知ってくれていて、しかも叶えてくれたのが慕鼓には嬉しかった。
「酒の肴は、オマエだけで充分だからな」
本気か冗談か、ニヤニヤと笑いながら囁く青嵐の背に、
「バカ。」
と恥じらう平手を見舞って、慕鼓は夫の項を抱きしめた。再び夜空を走り始めた彼の背に、しっかりと寄り添うために。
【続く】