……同じ頃、棟を異にする砦の北翼では、二人の男が長椅子に座す少女を傍らに、顔つきあわせていた。
「済まない、青冥(せいめい)。これ以上は――…」
顳に汗を浮かべ呻いた男に、青冥と呼ばれた男は頭を振って彼の肩に手を置く。
「いや、幻使(げんし)。俺こそ無理を言って済まない。今日は、此処までにしてくれ」
その声に応え、少女の前で頭を垂れていた男の髪が僅かに揺れる。青鈍色の帳下から擡げられた双眸に覗くのは、黒い眼に錆色の虹彩を持つ瞳。その奇異な相にも怯じることなく青冥は、幻使の肩を叩いて彼の尽力を労った。
「いつも済まないな……」
言葉少なに我が身を責める青冥に、幻使は眉を顰めて吐息する。
「俺とて、無理は承知の試みだ。――自ら我を手放した者の回復。生半なことで叶わぬのは道理」
効き目がないのは俺の力量不足か、と自嘲する幻使に、青冥は苦笑って首を振った。影砦で研鑽を積む者のうちでも、幻使は指折りの実力者だ。とりわけ幻術を得意とすることから人の精神領域に強く、また医術・薬学の類も修めて薬師の真似事もする。
影砦に迎えられた当初より書庫でもある北の塔を与えられ、今では『北塔の主』とも呼ばれている男だ。彼が手を尽くして効果がないとなれば、実質、砦内では打つ手は無に等しい。それこそ、砦の主人たる雷閃自らの出座でも願わぬ限り。
やはり、彼女を目覚めさせるのは無理なのかと苦渋に満ちた眼差しを傍らの少女に送る青冥に、幻使は口許を歪めて軽く彼の背を叩いた。
「まだ、試していない香も方法も幾つかある」
今回は、たまたま合っていなかっただけだろう――そんな気休めをくれる友に、青冥は苦しげな目を細めて微笑んだ。
「まだ、試す機会はくれるのだろう?」
冗談めかす幻使に、
「あぁ、……」
青冥は曖昧な頷きを返して、長椅子に座す少女を見つめた。
【続く】