遠く、細く砦内に流れる歌声に眠り乱されたか、寝台の上に横たわる影が、ふっ…と眼を開いた。砦の南翼、その最奥。幾重もの結界、あるいは次元断層によって隔てられ、特に許された者でなくば近寄ることも出来ぬ奥津城。影砦が主人の居室は、そんな場所に在った。
――外から入るは難くとも、内に在る主人には砦の中で起こることなら瞼を開くまでもなく、つぶさに知れる。目的の場所に至るのも然り。主人が目を覚ましたのは届く歌声を咎めるためではなく、他に理由があったからだった。
「良く眠れた? ……雷閃」
穏やかな声音で問う人影を薄布の向こうに認め、雷閃と呼ばれた男はゆっくりと上体を起こした。先の声は妻の声。違う筈もない、唯ひとり愛した女の声に、しかし雷閃は応えもせず、僅かに口端を歪めるばかり。幽かな吐息が、その唇から洩れたすべてだった。
いまだ己が名を呼ばうに少しの恥じらいを残す彼女を、雷閃は愛惜しくも可笑しく思っていた。妻として娶るまでは、あんなにも無造作に、時には憎しみすら込め、その名を口にしてみせたというのに。
だが、そうした変貌ぶりも、彼が妻を愛するのに支障をもたらしはしない。それどころか、いつまた元の如く己を悪し様に罵り出すかと、その時を賭けの対象にしていると知ったら――さて、この妻は何と言い出すやら。そんな戯れを胸に弄びつつ、雷閃は外していた肩布を纏い直し、臥処の紗を捲った。
【続く】