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2009 *06 13 トキメキ 〔44〕

「今、お茶を淹れようと思っていたの」
続き
 飲むでしょう? と屈託なく尋ねる妻に、寝台から立ち上がった雷閃は浅く目を伏せる仕草だけで頷いて見せる。それだけで花開くような明るい笑みを浮かべる彼女が、実は己より遥かに歳上だなどとは、雷閃にとって遠い昔のことのように思えた。
 肩布を整えついでに長い黒髪を背に掻き遣り、ゆったりといつもの席に着いた雷閃の前、彼の妻は茶の支度も半ばにオロオロと視線を巡らせる。それに訝る眼を向けた雷閃に応え、妻は躊躇いがちに口を開いた。
「折角の紅茶なのに、お菓子の用意が……」
 ちょうど切らしていて、と悔しげに唇を噛む彼女に、雷閃は微苦笑して視線を伏せた。雷閃は茶を飲む際に甘味を必要としたこともなければ口にしてみせた覚えもない。要は妻が欲しいだけなのだろうと、それが解っても雷閃の唇から笑みに似た綻びが消えることはなかった。
「――それなら心配は無い。じき、届く……」
 その言葉が終わるか否かの内に、ドンという派手な衝撃と共に室外の回廊に人の降り立つ気配があった。影砦に張られた結界も館内を隔てる次元断層のトラップすら関係なく、まして主人たる雷閃に何の先触れもなく最奥にあるこの部屋まで立ち入ることを許されているのは、唯ひとり。
 それに気がつくより早く、聞き覚えのある足音を耳にして、室内の彼女は花の顔を輝かせた。
「ゴメン、遅くなって!」
 騒々しく扉を開いた主は、部屋の――否、砦の王たる雷閃に礼を取るより先に、そう言った。また雷閃も、それを許し、ただ可笑しげに口許に笑みを燻らせている。思わぬ来客に頬を火照らせ、喜色を満面に表しているのは彼らの妻君ばかりだ。金色の髪に青玉の眸、象牙の肌に白銀の軍服を身に纏った美丈夫は、言う。
「ただいま、華燿。――愛してるよ」
 両手いっぱいの薔薇の花と、菓子折と思しき白い箱を提げた彼の姿も眼に入らぬ様子で、華燿と呼ばれた女性は潤んだ赤い瞳を輝かせ頷いた。
「お帰りなさい、一成。……私も愛してるわ」
 その言葉は、ふたりが抱き合うために散らされた花々と、円卓の向こうに座す男だけが聞き届けた、永遠の約束だった。

【了】

20:40 | SS | 稲葉