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2009 *05 05 トキメキ 〔5〕

 と、その時、内殿に続く回廊を、足音もなく歩み来る気配が立った。後に曳く影の形は闇に溶け、限りなく人外に見える男の名は、騰蛇。藤神祐子が従える、もうひとつの式神にして愛人であった。
続き
「主、……」
 呼びかけたきり、後は物言いたげに口をつぐんだ騰蛇に、祐子は軽く手を振って彼を呼び寄せた。
「あの分では報告も儘なるまい」
 ご苦労だったなと、先触れに立った下僕を労う祐子に、彼女の式神は緩く首を振って頭を垂れた。その、まだ言い足りなげな眼差しを、怪訝と共に受け止めた祐子は、騰蛇の頬に優しく手をあて、彼の横顔を撫で擦った。
「どうした、騰蛇?」
 可愛い飼い犬の機嫌を計る風情で呼びかけた祐子に、やおら騰蛇はニタリ、と微笑って頬の手に掌を重ねた。
「ご案じ召されますな。雄月の方には蛇珠(へびだま)を残して参りました程に」
 それを聞いた瞬間、傲嵐はウケにウケて大爆笑し、祐子と真人は揃って神妙な顰めっ面になった。
 蛇珠――それは一種の呪具、いやトラップと言ってもいい。一見して普通のオーブ(記録媒体ともなる宝珠)なのだが、迂闊に触れると大怪我をするだけでは済まない。許された特定の相手以外、或いは逆に狙われた特定の相手が触れると、仕込まれた巫蠱たる無数の蛇霊が吹き出し、標的を襲うというタチの悪いビックリ箱だ。巫蠱の出て来る様が、あたかも球状に丸めてあった蛇がほどけるが如くであるため、通称・蛇珠と呼ばれる。
 だが、問題は蛇珠そのものにはなかった。肝心は、それを誰が作ったかである。そも、騰蛇は蛇霊であって人間ではない。そして、如何に能力が高いとはいえ、式神であって術士ではない。よって、彼に出来るのは法術の行使ではなく、只に呪力の発露でしかない。
 これが何を意味するのかと言えば――通常、術士がものした蛇珠であれば、それは相手を任意に指定した術として使用できる。しかし騰蛇のそれは、己が蛇霊たる呪力を分け、産み落としたに過ぎない。つまり、術としての指向性やら何やらが、すっぽり抜け落ちているのだ。
 ……彼の作り出す蛇珠は特定の一人以外、見境なく相手を攻撃するテロリスト爆弾でしかない。そしてこの場合、例外たるたった一人とは、彼の主人・藤神祐子しかいないのである。実を言えば、件の蛇珠で傲嵐も真人も酷い目に遭っている。と、言うより、いまだかつて祐子以外に騰蛇から蛇珠を向けられて無事に済んだ者が、その二名しかいないのだ。他の末路や推して知るべし。そんな物を置き土産にされてしまった由良の運命や如何に、である。
「あっはっは、そりゃ良い!ソイツは安全確実な事後報告だ!」
 傲嵐などは拍手喝采しているが、その実、単に面白がっているだけに他ならない。他のことなら真人も尻馬に乗るに吝かではないのだが、殊、呪術に限っては彼とて祐子の指南を受けた術士の端くれ。洒落になることとならないことの区別程度はつく。もっとも、その水準は常人とは遥かに隔たってあるのだが。今は専ら、師匠の祐子を慮って渋面を繕っているに過ぎない。
「解った。御苦労だった、騰蛇。……戻れ。」
 半ば諦め混じりの労いと促しにも、誉められたと満足したのか騰蛇は、身を人型から蛇態に戻し、差し出された祐子の腕に絡みついた。現在の彼の棲処は、彼女の体内。愛しく心地好い居場所に戻れる歓喜をもって騰蛇は身を震わせ、腕から伝った祐子の胸元へと鼻先を潜り込ませた。
「…、っ…」
 身に異物の潜り込む衝撃を、快楽と紙一重の感覚をもって受けとめた祐子は、差し伸べていた腕を下ろし、胸元を軽く擦った。体内――それを媒介とする亜空間に身を沈めた騰蛇は、今頃、祐子の中で蜷局を巻いて寛いでいるだろう。
 我が胎を慈愛と共に見つめる妻の姿を横目に、夫・傲嵐はニヤニヤ笑いを浮かべたまま、真人に向き直った。
「それでオマエさんは、どうする? 俺たちゃ仕事上がりだ、これから家に帰るが……」
 言いつつ、チラと傲嵐が祐子を見るのは、彼女の意向次第だからだ。殊、けじめに煩く公私混同に手厳しい祐子のこと。例え真人が共に帰りたがったところで、彼女の許しがなければ我が家の敷居は跨げない。案の定、祐子は「オマエはまだ仕事中だろう」と言わんばかりの渋面になった。
 ――と、その時だった。この世界の面子にとっては、ほぼ携帯電話にも等しくなった心話の先触れが鳴った。

【続く】

11:05 | SS | 稲葉