log

2009 *06 10 トキメキ 〔41〕

 灰味を帯びた黒髪を緩く肩に垂らし、茫と煙る青黒の瞳を宙に据える少女の眼に、焦点はない。それでも砦に連れて来られた当初にはまだ、取り乱し、声を荒げる程の自我はあったものを。いつの頃からか言葉少なになり、そうして青冥も知らぬうちに物言わぬ人形と成り果てた。
続き
 ……彼女の名は、詠歌(えいか)。互いの身が未だ月の宮に在った頃より見知ってはいた。自分を好きだと言う、その瞳に狂的なものを見ても、年頃の少女にありがちな熱病、さもなくば恋に恋するが故の譫言としか取らなかった。他でもない、青冥自身ですら、己が母に懸想するという病に冒されていたというのに――。
 その後、恋破れた青冥が月の宮を辞し、何処へともない漂泊の途に就いた時、よもや跡を追って詠歌が出奔するとは誰も想像だにしなかった。青冥自身も無論のこと。危険だと――身を守る術とてない少女が宛て処なく彷徨うには、外界は物騒に過ぎた――何度、連れ戻されても青冥を探して宮を抜け出る彼女に、月の男主人が下した処置は影砦への委託。体の良い、軟禁であった。
 その頃、青冥は既に実力を買われ――一方には、実母への想いの消し難さ故に、実父から監視と見せしめの意味合いも込め――影砦へと迎えられていた。鬱屈した想いを抱えながらも、それを糧に頭角を表し、砦の執事とも言える位置を任されていた彼は、真っ先に詠歌と引き合わされた。
 ……その時のことを、青冥は今も忘れていない。半狂乱になって己に取り縋り、涙を流しながら情を乞うた少女の姿。あの苛烈を思うなら、今の詠歌の有様はあまりにも酷い姿だった。たとえ、この手が過日の少女の激情を、振り払ったのだとしても。

【続く】

20:33 | SS | 稲葉