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2009 *06 11 トキメキ 〔42〕

「まぁ、そう思い詰めるな――…」
 軽く肩を叩かれた衝撃で青冥はハッと我に返った。彼女が自我を手放したのは、何も青冥の非情が因と限った話ではないのだからと、そう暗に物語る幻使の眼を見ても、彼の瞳の憂いが晴れることはなかった。
続き
 今日の施術は此処までにさせて貰うと幻使が部屋を辞した後、詠歌と二人、室内に残った青冥は、そっと彼女の髪を一房、手に掬い上げ、指に絡めた。
 己を手放していても不自由のないよう、使役術で造り出した影女に命じて世話はさせている。毛先まで整えられ、丹念に梳られた髪は、その証だ。着る服も朧な記憶を頼りに詠歌の好みであったろうドレスを誂え、身に纏わせている。
 しかし、深い夜の闇を模したような青黒の天鵞絨で作られたドレスは、まるで喪服のようで。その色に包まれ、蒼白い顔を垂れる詠歌の姿は、青冥の心に嫌でも深い哀しみの爪痕を残した。
 ――こんなことが、こんなことが望みだったわけではない。こんな、少女ひとりを壊し尽くしてしまうような結末が。それとも、これが身の程を知らぬ恋に焦がれた代価だと言うのか。あるいは愚かな恋情に眼を眩ませたあまり、無下に扱った少女からの、せめてもの意趣返しなのか。
 だが、そのどれであったとしても、青冥は最早、詠歌を棄て置くことは出来なかった。彼女は、自分だ。青冥は、そう思った。激しすぎる恋の故に己を焦がし、行き場を失くした想いと共に壊れた。後はただ、身の朽ち逝くに任せ、此の世に在るだけの人形。それでも、――…。
 青冥は、想う。もし再び、彼女の眼に光灯ることがあれば、そこから始められはしないかと。同情で恋は出来ないと人は言う。まして、相身互いと憐れみ合うのは愛ではないと。それでも……。
「詠歌、――」
 長椅子に腰を下ろし、青冥は彼女の名を呼んで傍らに在る華奢な身体を胸に抱き寄せた。されるがまま、カクンと頭を垂らし、凭れかかる詠歌の眼には、やはり焦点はない。焦点はないままに、薄く開いた唇から幽かな歌声が零れ出す。それは遥かな昔、騎士の勲を讃える詩。同時に、愛する男の武運を祈る呪歌。そうして時に紡がれる唄が、まだ己に宛てられていると考えるのは自惚れに過ぎるだろうか。
「――詠歌、…」
 呼べど応えぬ少女の名を繰り返し、青冥は灰黒色の髪にそっと接吻けた。始まりもなく、終わってしまった恋を悼むように。果てなく追い求める、愛の残り香を惜しむように。

【続く】

20:36 | SS | 稲葉